東亜道路工業の歴史
■1938年 揮発油及び重油販売取締規則、国家総動員法公布 ■1941年 太平洋戦争勃発 ■1942年 関門トンネル(山陽本線)開通 ■1946年 日本国憲法公布 ■1948年 道路の維持修繕5ヵ年計画に関しGHQが覚書発表、道路の修繕に関する法律公布・施工: 修繕に対し補助又は直轄施工の道を開いた ■1949年 建設業法による業者登録実施
■1938年 揮発油及び重油販売取締規則、国家総動員法公布 ■1941年 太平洋戦争勃発 ■1942年 関門トンネル(山陽本線)開通 ■1946年 日本国憲法公布 ■1948年 道路の維持修繕5ヵ年計画に関しGHQが覚書発表、道路の修繕に関する法律公布・施工: 修繕に対し補助又は直轄施工の道を開いた ■1949年 建設業法による業者登録実施
■1938年 揮発油及び重油販売取締規則、国家総動員法公布 ■1941年 太平洋戦争勃発 ■1942年 関門トンネル(山陽本線)開通 ■1946年 日本国憲法公布 ■1948年 道路の維持修繕5ヵ年計画に関しGHQが覚書発表、道路の修繕に関する法律公布・施工: 修繕に対し補助又は直轄施工の道を開いた ■1949年 建設業法による業者登録実施
1940年代
“外資系”からの脱却と経営体質の強化。そして戦後の復興へ。
1940年
(昭和15年)
外資を日本側に肩代わりし、100% 日本資本化
1942年
(昭和17年)
商号を東亜道路工業株式会社に改称
商号をビチュマルス道路工業株式会社に改称
- ○カットバックアスファルトを使用して「プレミックス」としての混合作業を初めて実施
- ○亀戸合材工場開設
《亀戸砕石工場》
戦後間もないこの時期、東京はまだ見渡す限りの焼け野原だった。日本全国が進駐軍の管理下に置かれ、アスファルト、砕石、砂など舗装の主要材料は極度に不足していた。亀戸合材工場は、アスファルト合材を製造するプラントだったが、翌年には砕石・砂などの製造も開始している。進駐軍から支給される「カットバックアスファルト」を使用した「プレミックス」の混合を指示され、約1年半にわたり、全国から集めたわずかなアスファルト(針入度はまちまち)にわざわざケロシンを加えてカットバックし、アスファルト合材を製造した。当時、横浜方面や東京都内の道路は、「プレミックス」を使用して補修されている。
1942年
(昭和17年)
東京営業所開設(1997年4月関東支社に改組)
1948年
(昭和23年)
事業を追加「石材採掘および砕石製造販売」
長野・十島・用宗作業所、その後沼津・釡石作業所に(砕石)を新設東京証券業協会承認銘柄として店頭売買開始(上場)
- ○瀝青代用品「タールビッチ」の新施工法確立
1949年
(昭和24年)
大阪出張所開設(昭和52年4月関西支社に改組)
建設業法による建設大臣登録 ( イ ) 第 207 号(以降 1974 年まで更新)